■悲しみやつらさの真ん中にいるだけじゃ、見えない景色があると思う。
しあわせすぎたり、悲しすぎたりする時って、まわりが見えなくなってしまうことがあると思う。そして、自分自身も見えなくなってしまうような気がする。
好きだった人にさよならを言われたら、それはもう失意のどん底に落ちると思う。
自分は最高に不幸で、悲しみの渦の中。
涙は止まらないし、なぐさめの言葉も心に入ってこない。
自分を救ってくれるものなんて何もない。
これからずっとひとりで生きていく覚悟をしなくちゃいけない。
日々は、なんとかやり過ごすことでせいいっぱい。
もうまわりなんて見えないし、見たくない。
あまりに悲しみに近すぎて、こんな気持ちになっている時は、
本当に何も見えないと思う。
自分がどうしていいのか、これからをどう考えていったらいいのか、
全く見えない。
でもそんな時ほど、
悲しみから離れて、遠くの景色を見なくちゃいけないって思うんだ。
悲しみの猛スピードで走っている時こそ、
遠くの景色をながめる時間を持たなくちゃいけないんだと思う。
銀色夏生さんのだいぶ前の詩の本に、
走る車からは、近くの風景は流れてしまって見えないけど、
遠くの景色なら見えるっていうようなことが書いてあった。
これって、目に見える風景のことだけじゃなくて、心の景色のことも言っていると思ったの。
悲しみの猛スピードで走っている時は、
自分の気持ちとか、すぐそばの状況って、どんなに目をこらしても見えないと思う。
でも、遠くの景色ならどんなスピードで走っていても見ることはできる。
そして、反対に、一度自分の心を遠くに離してみて、
猛スピードで走っている自分のことを見てみると、
その先にどんな景色があるとか、
そっちに行ったら行き止まりとか、
急な山道に入るとか、
明るく開けた場所に出られるとか、
そういうのが分かると思うんだ。
近くにありすぎる景色は気持ちは、見えないんだよね。
これは、失恋の悲しみだけに言えることじゃなくて、
しあわせの真っただ中にいる時も同じだと思う。
自分がしあわせだからって、その気持ちをふりかざして、近くにいる人たちを傷つけてない?
まわりの状況を冷静に見れている?
満ち足りた状況にいるからこそ、
だからこそ、少し遠くから自分を見つめなくちゃいけない時もあるはずだから。
絶望と悲しみの真ん中にいる時は、
悲しいのは自分だけじゃなくて、同じような想いをしている人は他にもいるって、
走る気持ちの車の中から、同じような遠くの悲しみを見ることで、
見えてくる未来があるって思うの。
悲しすぎて、何も見えないんじゃない。
何も見ようとしていないだけなのかもしれない。
もし、あなたが今、失った恋のつらさの中心に立っているのなら、
ちょっと顔を上げて、少し遠くの景色を見てみて。
天気はどう?晴れている?
風は吹いてる?そこから今何が見える?
まわりの人は、みんなそれぞれの苦しみや悩み、希望を抱えて、
でも淡々と生きているよ。
苦しいのは自分だけじゃない。
つらい経験をしているのは自分だけじゃないない。
その先には、何か得るものがあるはずだから。
悲しみから離れて遠くを見ることで、そういう景色を見ることができるんだと思います。
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